龍宮に盗られたもうひとつの宝

最終更新: 2018年6月10日

「海士」という能には、さまざまな謎がついてまわる。 その謎はどうやら、日本国家創生の秘密に深い関わりがあるようだ。日本島全土と周囲の海域に隆盛した数々の古代氏族達。 彼らの権勢の複雑な駆け引きによって大和朝廷は中央集権制を強化していったわけだが、 その正確な経緯や古代氏族の系譜はいまなお謎である。確かに存在した歴史が謎となる背景には人間の意図的な策謀が見え隠れする。朝廷の権力者を正当化するために隠匿され、あるいはゆがめられた疑いがあるのだ。

能「海士」において「賤しき海士」とうたわれる藤原房前の母親も、大和創生に関わった由緒正しき名氏族である「海部氏(あまし)」の名声を隠匿する為、または密かに「海部氏(あまし)」の血統を証言する為の呪代ではなかったか。

「海士」にうたわれる三つの宝。ときの権威者、藤原不比等の妹は唐の皇帝に嫁し、興福寺造営に際し唐より贈られた宝物は、「かげんけい、しひんせき、めんこうふはいのたま」。このうち二つは無事興福寺に到着し、残るひとつは讃岐志度の沖で竜王に盗られた。 海士は愛するひとと我子の為に、命を賭して龍宮へ赴くのである。

かげんけいしひんせきは実際に見ることができる。 奈良興福寺の宝物館に納められている二つの宝(下図)は、いずれも法会の始まりを知らせる「打楽器」である。



そして、もうひとつの宝、「面向不背の珠」は‥

海士によって龍宮より取り戻された珠を、不比等は折から造像中の興福寺中金堂本尊、釈迦如来像の眉間に納め、後に改めて仏頭の中に奉籠した。この珠を求め追う竜王の後日譚が伝えられるが、これもいずれかの氏族の象徴であると思われる。 しかし平安中期、康平三年(1060)に中金堂は炎上し、このとき本尊仏とともに「面向不背の珠」焼失したはずだった。

竹生島で発見された面向不背の珠

さて、失われたはずの宝珠が発見されたのは昭和51年のことである。 それも何故か、琵琶湖北部に浮かぶ竹生島、宝巌寺からである。 竹生島は夜間無人の、寺社のみよりなる小島である。その景観の美しさは 能「竹生島」に謡われ親しまれているが、実際上陸するとなると琵琶湖の荒波に阻まれ、なかなか大変らしい。 この島に宝巌寺が建立されたのは700年代、聖武天皇の御代であるから「海士」の時代よりは少し新しい。但し、宝巌寺建立以前から弁財天信仰が盛んであったというので、より古い時代から何らかの社は存在したものだろう。 琵琶湖は、物資輸送、交通の主要手段を船舶に頼っていた長い長い期間、山陰と山陽を結ぶ重要な水路であったのだ。しかし先にも書いたように琵琶湖の波は荒れやすく、「急がば回れ」という諺はそこから生まれたと言うほどで、船路の安全を祈願して豊穣の神・荒ぶる神両面の顔を持つ弁財天が祀られていたのだろう。

問題の面向不背の珠であるが、能「海士」では次のように語られる。

『玉中に、釈迦の像まします。何方より見奉れども同じ、面(おもて)なるによって、面(おもて)を向こうに背かず、と書いて、面向不背の珠(めんこうふはいのたま)と申し候。』

どこから見ても、釈迦像がこちらを向いている、というのだ。手品じゃあるまいし? そんな訳で、ますますもって「おとぎばなしの魔法の宝物」と、思っていたのだが‥ 竹生島の宝珠は、確かにどこから見ても釈迦像は正面を向いているようだ。その種明かしはこうだ。記録によれば、

~さて、今回発見の竹生島の面向不背の珠は、高さ9.3センチばかりの小さな水晶珠で、珠のまわりを四方火焔で包み、金銅製の蓮台を備え、朱漆塗四方開きの舎利厨子の中に安置される。 珠の内部は四室に分かち、各一室にほぼ同形の白檀製釈迦三尊像を納置し、四面より礼拝できるように工夫されており、仏像は光背、宝冠、装身具、持物に金線を用い、唇に朱、髪に群青を点じるなどまれにみる精巧な造型で、いかにも竜王との 争奪戦にふさわしい珍珠である。~

面向不背の珠は本物か? 宝厳寺・宝物館で実物を拝観した。9,3センチの水晶球というのは予想以上に大きいものだ。その中に四方から拝むことのできる4組の釈迦三尊像。それはため息がでるほどに 精巧で美しいものだった。 しかし、果たしてこれは「本物」なのか?

「竹生島文書」の記録によれば、南北朝時代の貞和二年(1346)に良恵という僧が所持していた珠を竹生島の弁財天に奉納したという。また、火焔と蓮台、厨子は室町末の永禄八年(1565)の仕様であった。

科学的分析が行われた訳ではないらしい。康平三年(1060)の興福寺中金堂炎上によって焼失したと謂われる宝珠。 何者かによって持ち去られ、300年の時を経て竹生島に渡されたというのは考えられないことではない。 第一、「水晶の珠」は、跡形もなく焼失するものなのか?という疑問も覚える。但しそれはあくまでもロマンを求める者の希望的観測。大方の考えは、伝説に従って模造されたというものだ。

本物にしろ模造品にしろ、興福寺の至宝だったものが、竹生島に奉納されたのはどういう理由からか?

竹生島と興福寺の因縁 竹生島が琵琶湖水運の守護神であったことは先に述べた。さて、実は興福寺も、所領からの物資輸送を琵琶湖水運に拠っていた。 興福寺の所領とは越前の河口庄と坪江庄のこと。荘園からの年貢物産輸送にあたり、盗難や収奪の危険性のより少ない方法がとられたといわれる。この場合、越前三国港から船積され、敦賀港に回漕、陸路、湖北岸の塩津に達し、湖上を輸送、大津、淀川を経て木津に上陸し、奈良に運ばれるのが通常コースである。

また、興福寺僧侶の間でも古くより竹生島弁天が喧伝されていたらしい。

請雨の祭礼と、法華経の龍女成仏 伝説によれば宝珠をとられた竜王はそのあとを追って奈良まで到達し、猿沢池に住んで奈良の竜神となった。 その後、人声を嫌って春日高山の竜王社に飛び去り、さらに室生の竜穴に居を移し、室生の善女竜王となったとか。

この竜王の居所の変遷は、興福寺の勢力支配が雨乞いという施政方針によって奈良春日社を掌握し、さらに室生、大和一円に波及した事実の説話化伝承として、非常に興味深いところである。

日本における初期仏教の受容にともなって伝授された「法華経」に、「龍女成仏」の項がある。年8歳の沙竭羅竜王の娘が宝珠を仏に献じ、男子に変じて仏道を極めたというもので、現代に続く女性蔑視(罪業深い為女性のままでは成仏できないという思想)の根拠となっている。この宝珠が幾多の宝物を合わせたほどの価値と財宝を雨の如く降らしめて衆生を救ったとされたことから、宝珠の請雨信仰、竜王の女性的イメージの定着(弁財天との結合)が生じてきたのだろう。

竹生島の弁財天は、奈良時代に行基が、聖武天皇自作の弁天を祀ったのが初めと伝えられるが、これが江湖の信仰を集めるようになったのは、平安中期、天台宗の慈恵大師(良源)が同島で行った蓮華会の祭礼以来といわれる。 この祭礼は今の8月15日に行われ、竹生島のほか出羽羽黒山、大和吉野山など天台系修験霊場で行われる夏の峯入りに伴う祭礼行事で、法華経を購讃し神仏に供花するところから花の祭礼とも呼ばれる天台宗の三大祭の一つである。

当日は金鳥を象った船数隻をしつらえ、弁天の作り物を神輿にのせて一隻に積み、管弦、舞楽、散花を興行し、湖東岸より竹生島へ船渡御する。祭りの終了後は金鳥の飾り物を湖中に投じ、のち金鳥の心臓が変化して如意宝を生成する。 如意宝とは水威を司どる宝珠であり、祭礼の起源において良源大師は、勅宣を蒙って雨乞祈願を行ったのだった。

面向不背の珠をめぐる謎は尽きない。しかし、興福寺の三大名宝のひとつと確かに伝えられるこの宝珠が、発見以後も竹生島に安置され続けている(実物でないにせよ)ことは、その必然性を物語っているように思える。

伝説は、事実のあからさまなる伝聞がはばかられる時、エッセンスを具象化して形成される。伝説化され伝えられるべき事実が、人心の琴線に触れるものであれば、伝説を拠りどころにして物証が創作されることもある。さらに、人心を惹きつける力を利用する者も現れる。

果たして宝珠は、本当に唐から贈られたものだったのか? 海士の珠取り伝説、讃州志度寺の龍女信仰、竹生島の面向不背の珠をめぐる竜王伝説。これらがいったいどのような史実を具象化したものなのか。

天武天皇(大海人皇子)、藤原氏によって強権化された大和朝廷の、成立以前の日本や、大陸の勢力地図が明らかになる日、


その意味もまた明らかになるであろう。

しかしはてさて、いつのことになるのやら‥。

観世流能楽師  山下あさの