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葵の上考

能「葵上」は人気曲である。ストーリーが簡潔でわかりやすく、演出にも緩慢としたところがない。 それでいて人間の情念を深く描き、比較的若い役者でもそれを表現するのは困難を極めるものではない。(演出や能作の巧さによるところが大きい) 舞台正先に葵上を表す小袖を寝かせる演出も、能ならではの抽象表現で解説に便利なのだ。

人気曲ゆえに「葵上とはこういうもの」という既成概念の枠はしっかりとできあがっているようだ。 確かにそれは能「葵上」を、何の先入知識もなく観るならば舞台上に最高の効果をもたらす。 けれども「源氏物語」を知っている者には、少なからぬ違和感を覚える点があるのではないか、と感じるのである。その違和感をどう解消するのか。しかし違和感を解消した演出をもってしても「源氏物語」を深くは知らぬ人に、その実質を伝えきれないのかもしれないが‥ その、私の知っている「葵上の実質」について、考えてみよう。

なぜ、「葵上」なのか 最初から最後まで、舞台のシテは六条御息所である。しかし、曲の名は葵上 ある人が言った。確かに能の題名は、かなり正確にその曲の主人公の名を語っているのだと。 隅田川の主人公は、旅する母ではなく、隅田川なのだ。能半蔀の主人公は、その半蔀だ。 主人公と言って語弊があるならわかりやすくこう言おう。

能の題名は、その曲のテーマ、イメージの集約するところのシンボルなのである。 その言葉の響きは一曲を貫く精神性迄も表していることが多いのだ。

それは、紫式部の作品、「源氏物語」にも使われた手法であった。この物語に登場する女達の名は、すべて「あだな」であり、それぞれの女の運命や性格をも表している。 では、「葵」とは、どういう印象をもたせるべく与えられた名なのか? 現代の我々は、「葵の御紋」から高貴な人を連想するが、水戸藩はずっと後世のはず。 「源氏物語」の中では「葵の巻(葵祭りを中心に展開する)」で活躍する姫なので葵上というあだなを、読者がつけたのだ。ではとは、どういうイメージの植物なのか。

賀茂神社では、神を迎える儀式に、葵・桂を供えるようにとの神託に従い、古来この二種の植物が欠かせない。そしてその意味するところは、ふたばあおいの形状が女性生殖器を、かつらもまた、男性生殖器を象徴するというのだ。

賀茂神社は男女が逢い結ばれる宮。ならば大殿の姫に冠せられたの名は、まさにこのとき彼女の身に起こっていた、懐妊のイメージだと思われるのだ。

葵上懐妊の意味するところ 一般的に能葵上においては、男の愛が離れつつある盛りを過ぎた女の、愛される若い女への嫉妬という対比が強調される。正先に置く小袖は、おおむね華やかな若々しい色柄の物が選択される。

しかし葵上は実際物語の中で、源氏の君に寵愛されていたか?‥‥否。

気位ばかり高く、大人の女の素養も色香もない姫を、源氏は愛しはしなかった。 その愚痴を六条御息所に漏らし、御息所も、政略上やむを得ず迎えた正妻ということで気を保っていた。 未熟な姫自身も源氏に好まれぬことを悩んではいたが気位高く育った為なすすべもない。 彼女は六条御息所と対照的というよりは、むしろよく似た存在なのだ。

第一、六条御息所は女として盛りを過ぎていた為源氏が離れつつあったのか?‥‥否。 彼女は故春宮の正妻であった。地位も高く才色兼備で宮廷サロンの華として、男達の求愛は後を絶たなかった。源氏の求愛を受け入れたのはやはり源氏の君の魅力のほかに、懐妊すれば正妻への道も考えられる、格の釣合う高貴な相手であったこともあろう。 二人の立場は人知れぬ愛人として見過ごされるべきものではなかったのだから。

愛があっても、こどものできないことはある。また、愛は無くともこどもはできる。

六条御息所は教養が高すぎて気が休まらない、と源氏は言った。 そうして五条あたりの下町の女のところに通ったりするのだ。

葵上と、御息所は、鏡映し。 そのことを互いは知らない。それぞれにあちらこそ愛されていると疑い、自尊心ゆえに醜い情念を押さえ込んで苦しむ。

形ばかりの正妻だという源氏の言葉を覆したのは、葵上懐妊の事実であった。 愛の有無はともかく、ふたりの血を交えた存在がそこに有る、という事実に対する衝撃は、 女性ならば想像がつくであろう。

そのとき、葵上は‥ 夜な夜なやってくる悪霊に悩まされ、臨月の大きなお腹で病の床から起き上がれずにいた葵上である。 「美しい着物を纏い、幸せの絶頂にある若く美しい姫君」ではない。 おそらくは祈祷の為の白装束。あぶら汗を流し悶え苦しんでいるはずだ。 御息所の生霊は、小袖(葵上)へと向かう。横たわる姫の臨月の腹を凝視し、押さえ込んだ胸の内の恨めしい思いを切々とのべる。情念の炎は燃え上がり堰を切って溢れ出し、ついには葵上をあの世へ連れ去ってしまおうとする。 鬼となった生霊はさらに葵上に襲い掛かる。調伏の行者の呪文を打ち払い、打ち払い。 しかしついには悟りを得て成仏するのである。

「源氏物語」の中で、生霊は消滅してはいない。また、葵上は息絶え、悲惨な結末となるのだ。

能と原作の相違はなぜ 能と原作の相違には、どのような意義があるのだろうかと考える。

怨霊の成仏‥‥とても、成仏しそうにないシテが成仏する能は多数存在する。 その理由を、貴人の御前での便宜上であるという見解をしばしば耳にする。

だが私はそうは思えない。能はもともと宗教儀礼から起こってきたものだ。 迷える魂の救済、供養、鎮魂の意が込められているからこその能なのだ。 我々は、とても救われそうにない人の世の苦しみを抱えるシテに、自らの苦しみを投影する。 深く共感するほどに、シテが成仏するときの安堵感も大きいだろう。

観る者の魂の救済をもって、能は完結するのではないか。

仮説「葵上」 なぜ、赤い小袖は効果的なのか。なぜ、怨霊は成仏するのか。なぜ能の題名は「葵上」なのか。 原作を知った上で、ひとつの仮説を提起したい。

最も苦しんだのは、葵上だったのではないだろうか。 そして能「葵上」は、葵上側のビジョンなのではないだろうか。

怨霊は、罪悪感の産物ではなかったか。源氏に愛されなかったのは葵上だ。 葵上は、源氏が六条御息所を愛した事を知っていた。実は愛されていない自分がその人を苦しめていること、源氏の子を身籠ってなお真実愛されはしないことの苦しみ。

愛されないこと‥それは、自分自身の存在を、根源から責め、否定する根拠となる。 一度は源氏と真実愛し合った熱い想いを切々と述べる御息所の姿は、愛されない自分を責める葵上のビジョンともとらえられる。

葵上は死んだのだ。成仏する般若の姿は、ついに自らの想いを表出することなく幸せの象徴のように赤い小袖に封印されて息絶えた葵上が生の苦しみから解放される瞬間の姿なのかもしれない。

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