あまの謎

最終更新: 2018年6月7日

「あま」には、何かが隠されている。それは、直感である。 能のルーツを探る中で、たびたび出会ってきたキーワード、「あま」。 「あま」にはいつも、謎がつきまとう。 それはまるで能を通して、解明を求める声が聞こえてくるかのようだ。

不思議に思ったことはありませんか? 「海」や「天」を、「あま」と読ませること。 「女」も「あま」、「海士」も「あま」と読ませる。 「雨」「甘」「尼」‥

これら、「あま」のひびきを持つ言葉達には、一貫するイメージがある。 それは、美で寛容な、全てを優しく受容し、生命を育む母性である。 日本の漢字には、「音読み」と「訓読み」がある。前者は導入した文字の「音」を、そのまま輸入したもの。 後者はもともとあった言葉に、同じ意味の漢字を流用したもの。 本来の「やまとことば」は、音の響きが、そのままそのものの存在を表現するものであった。 「鳥」と他者に伝える為に、さえずり、はばたいてみせるように、事物の持つイメージを、 口から発する音の響きで現したのだ。

赤ん坊が生まれて、大きな産声を上げる。そして、口を閉じる。最初に発する言葉は、「A---M---A」。 世界の各地に、「A---M---A」の響きを含み、母や海を意味する言葉が存在する。

あまたりしほこの秘密 日出処天子は聖徳太子ではない

聖徳太子といえば、1万円札の図柄にもなったほど、日本の国家政治の基礎となる制度を整備し、理念を定め、仏教を導入し、海外に対しては独立の気勢を示し、かずかずの業績が語り伝えられる偉人である。

能との意味深な関りも語り伝えられる。曰く、聖徳太子の時代に大臣となったという秦河勝(はたかわかつ)。秦氏は諸芸能の祖と伝えられ、太子の為に能を作り、演じていたというのだ。 しかし、日本史研究の専門家の間では、「聖徳太子」が虚構であることはすでに江戸時代頃からの常識であったらしい。 その人が存在しなかった、ということではない。 複数の人間の業績を、ひとりの聖人の伝説として祭り上げ、大和朝廷の正当化に利用するという、日本書紀によくあるパターンの一例である。

そして、有名な日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きやという国書は、聖徳太子の書いたものではなかった。 この書は、実は日本書紀にも記載されていない。隋において同時代に書かれた「隋書・イ妥国(たいこく)伝」に記され、しかもその国書の主は、あまたりしほこだというのだ。「隋書・イ妥国(たいこく)伝」より抜粋を下に記す。

開皇二十年(600)、倭王有り。姓は阿毎。字は多利思北孤。 阿輩[奚隹](「鶏」と同義)弥(あまきみ)と号す。 使を遣わして闕に詣る。…王の妻は[奚隹]弥(きみ)と号す。後宮に女六、七百人有り。 太子を名づけて利歌弥多弗利(りかみたふり)と為す。

倭王、小徳阿輩臺を遣わし、数百人を従え、儀杖を設け、鼓角を鳴らして来り迎えしむ。 後十日、又大礼可多毘を遣わし、二百余騎を従え、郊労せしむ。既に彼の都に至る。 其の王、清(隋の煬帝の使者、裴世清-かわにし注)と相見え、大いに悦んで曰く、「我聞く、海西に大隋礼儀の国有り」と。

倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天、未だ明けざる時出でて政を聴き、跏趺して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、云う「我が弟に委ねん」と。

阿蘇山有り。其の石、故無くして火起こり、天に接する者、俗以って異と為し、因りて祷祭を行う。

百済を度り、行きて竹島に至り、南に[身冉]羅国を望み、都斯麻国を経、迥に大海の中に在り。 又東して一支国に至り、又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも疑うらくは明らかにする能わざるなり。 又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆倭国に附庸す。  王の名は、阿毎 多利思北孤。尊称は、あまきみ。 夜明け前に政務を執り行い、夜が明ければ弟王に委ねる。 その都は阿蘇山に近い。竹斯国(筑紫)より以東は、皆この国に附庸する。

これは、九州の王だ。阿毎 多利思北孤が遣わしたのは、遣隋使だった。 一方、近畿大和朝廷の推古天皇の甥とされる厩戸皇子の業績に、阿毎 多利思北孤の業績が 混同されて理解されるのは日本書紀における年代詐称の手法と、おそらく阿毎 多利思北孤の業績の挿入による。

日本書紀において、推古朝は常に「大唐」へ使者を送っているが、「隋」の滅亡と「唐」の立国は、619年のことなのだ。 九州王朝と大和王朝(前身)は同時期に存在し、それぞれに独自の外交を行っていたのである。 下に、「隋書・たい国伝」と「日本書紀・推古紀」の記録を年代ごとに並べてみた。


観世流能楽師  山下あさの