壇ノ浦ツアー 2018

最終更新: 2019年6月24日

2018年12月15日土曜日、来年2月の能公演『船弁慶』の関連スペシャルイベントとして、

壇ノ浦ツアーが開催されました。


新下関駅から貸切バスで、32名で出発。

参加者は広島、大阪、奈良、遠くは東京からも。

15日前後に旅行を組まれている方、日帰りの方、いろいろです。

私は前日午後に下関に到着、徒歩、バス、タクシーあらゆる手段で下見をし、下関駅のダイソーで名札カードと目印の旗を仕入れ、当日に備えました。

新下関駅から、壇ノ浦とは逆方向の東の海岸線へ向かいます。

豊功神社は合戦の時、源氏が陣を置いた「干珠島、満珠島」を見晴らす絶景ポイント。

世間からは少し忘れ去られた感じの神社ですが、干珠、満珠はこのツアーの重要な伏線です。

ここから見える海は古来、龍宮への入り口とされました。神功皇后は龍宮から授かった干珠、満珠(潮を操る宝珠)で津波を起こして凱旋し、その宝珠が島になったと伝えられています。

また源氏はこの水域を支配した、串崎水軍の協力を得て戦を有利に運ぶことができたといいます。

何しろ最高のお天気、磯に打ち寄せる波の音を聞きながら、皆素晴らしい眺望に見入りました。

境内には小さな宝物館があります。この神社、御祭神ゆかりの御宝物は約90点に及び、その中でも茶道に造詣の深かった藩祖秀元公に相応しく茶道具の名器逸品を所蔵しています。

展示されているのは20点ほどですが、寛永17年(1640)9月16日、秀元公が亭主となって将軍徳川家光や御三家、幕閣、諸大名などを将軍家の品川御殿に招いて開いた大茶会で使用された「瓢箪釜」や「利休茶杓」もあります。参加者はお茶人がいっぱいおられるのでぜひご案内したかったのです。

宮司様の息子さん(であろう青年)の丁寧なご説明で10名くらいずつ交代でじっくりと拝見。

境内に放たれた烏骨鶏とも戯れながら、次のポイントへ向かいます。

大型バスのため駐車場まで少し歩かねばなりませんが途中、毛利秀元の串崎城の立派な石垣を見、すれ違う高校球児たちの爽やかな「ちわっす!!」に癒されました。


平家一杯水は、駐車場がないのでバスの窓から。

ともかく壇ノ浦(別名 早鞆の瀬)は一日に4回、潮の流れの向きが変わる。

干満の差も激しく潮の流れも速いので、航海の難所なのです。

「平家一杯水」とは、疲れ切った平家の武者がこの井戸にたどりついても、一杯しか水が飲めない。

干潮のときは山から伏流水の真水が流れ込むのですが、満潮となると海水となるからです。

向かいの岸にも同じ言い伝えの井戸の跡があります。平家の哀しい伝承です。


ちょうど12時、昼食は「海峡ビューしものせき」。高台にあって関門海峡を見渡せるロケーション。

この日のメニューは「馬関会席」。前菜三種、ふぐ刺し、ふぐ鍋、ふぐ揚げ出し、瓦そば、ふぐ雑炊、フルーツ。

ビールで乾杯する面々もあり、とても美味しく和気あいあいとしたランチタイムでした。



こちらは国民宿舎なのですが、スタッフの対応も素晴らしく、施設も美しく、本当に気持ちよく過ごすことができました。




関門橋たもとの「みもすそ川公園」へ。

「安徳帝御入水之処」の石碑。

公園の名は御入水の際の辞世の句にちなんでいます。


「今ぞ知るみもすそ川の流れには(御ながれ)

波の底にも都ありとは」


能「大原御幸」では心ならずも助命された建礼門院徳子(安徳帝の母)が大原を訪ねた後白河法皇の望みで合戦の地獄のような有様と、我が子の最後を語ります。

二位の尼(徳子の母)は数えで8歳の幼帝に言い聞かせます。「このようなつらいことばかりの世界にお別れいたしましょう。この波の底に極楽という素晴らしい都がございますのでお供いたしましょう。」

幼いながら理解されたのでしょう。まず東に向かい伊勢へ別れを告げられ、次に西へ向かって念仏を唱え、辞世の句を遺して海へ沈んで行かれたのです・・・国道沿いの車の音も聞こえなくなるような哀しい気持ちを皆さんと共有したひとときでした。

この句は二位の尼が詠まれたという説もあります。

御裳濯川(みもすそがわ)は、伊勢神宮手前の五十鈴川のことです。神に詣でる前に手足を清める川。

その神の子孫である帝、また五十鈴川の流れともつながっているこの海ならば、地上と同じく海底にも都が用意されているのです。

絵図を見ています。興味深いのはイルカの群れが描きこまれているところでした。

壇ノ浦の合戦のとき、1000頭を超えるイルカの群れが現れたといいます。

平宗盛が陰陽師の安倍晴信に占わせます。晴信は「イルカの進む方向にいる軍が負ける」と予言します。

イルカの大群は方向を変える事なく平氏軍の下を通過して行きました。

壇ノ浦の複雑な潮流に関わる面白い伝承です。


前日ダイソーで入手した旗を持ってご案内。

紅白の配色とギザギザの模様が、源平と幕末のイメージに丁度いいなと思い、三つしかなかった国旗から選択しました。

バーレーンの国旗なんですが、これもなぜダイソーにあるのか、謎です。旗の効果はとても大きかったと思います。目印、大事ですね。




平知盛像

勇ましく戦い、最後まで帝をお護りして知盛も入水しました。浮かび上がってこないよう鎧、兜を二つずつ、さらに船の碇を担いで。

能「船弁慶」の後シテ、知盛の亡霊は滅びていった平家一門を率いて尼崎の海に現れ、頼朝から逃れようとする義経の船に襲い掛かります。

怨霊の大将にふさわしい戦いぶりが伝えられています。

源義経像

壇ノ浦で、船から船へ飛び移り、三種の神器を探したという義経。

この像、とってもハンサム!と女性陣感心。足元には大河ドラマで主要な役を演じた方々の手形もあり。

義経は、タッキー。二位の尼は松阪慶子。ちょっと観たくなりました。


安徳天皇が祀られている「赤間神宮」。

建久二年(1191)の勅によって霊廟を立て、阿弥陀寺と称していましたが、明治の神仏分離によって

安徳天皇社となり、その後赤間神宮と改称しました。

幼帝が赴かれた海底の都は龍宮であったという伝承から、龍宮を模した水天門が有名です。

こちらは前もってお願いしていた通り、神職の方がご説明をしてくださいました。

ご本殿は塗り替え中でシートで覆われていましたが、

「おみよがわり(御御代替り、と書けば良いのでしょうか)」のため、とのこと。

壇ノ浦入水のお話も内容は同じなのですが「幼いとはいいいましても、陛下でございますので、おわかりになっておられたのでしょう・・・」幼い天皇陛下が亡くなられた物語が現実味をもって、ますます哀しく胸に迫るような思いで聞き入りました。

耳なし芳一の像

ここが阿弥陀寺であったころ、盲目の琵琶法師・芳一が平家の亡霊に取り憑かれました。芳一を救うため和尚が芳一の全身に経を書いたが耳に書き忘れ、亡霊によってその耳をちぎり取られた話は有名です。



平教盛、平知盛、平経盛、平教経、平資盛、平清経、平有盛、平盛継、平時子(従二位尼)など平家一門を祀る七盛塚。彦島にある平清盛と合わせて盛の付く武将が7人いるのが七盛塚という名の由来とか。

壇之浦で没していない武将も含まれることから、赤間神宮の前身、阿弥陀寺の寺域だった紅石山に散在していた供養塔を集めたものだと想像されています。

さすが、昼間でも薄暗く恐ろしいような空気が流れているような、気がしました。


関門橋を通って対岸へ渡ります。

普通自動車はトンネルを走るので景色は見えません。

しかしトンネルの入り口までが遠いのなんの。

歩行者トンネルの入り口は関門橋のたもとにあって、無料で通行できます。

780mですから10分そこそこで対岸に着きます。写真は前日の下見で撮影した歩行者用トンネルです。

ちなみにトンネルは今年60周年。大きなトンネルの中に自動車用道路、歩行者用通路が縦に配置されているのだと、運転手さんから豆知識を教えていただきました。



対岸は福岡県。門司の町です。

まずは平知盛の墓がある、「甲宗八幡神社」へ。

第56代清和天皇の貞観元年(859年)宇佐八幡神を都へ勧請する途中、門司の筆立山に来臨されたので、神功皇后の甲(かぶと)をご神体として宇佐八幡の御分霊を祀ったといいます。

戦勝祈願にご利益絶大なのです。



伝 平知盛の墓

(向かって左・・・墓 向かって右・・・供養塔)

この石塔は平知盛(1152~1185)の墓として甲宗八幡宮に伝わるものです。知盛は平清盛の四男で、勇猛果敢な武将として能「船弁慶」などの芸能にも取り上げられております。父清盛亡き後、平家の総帥となった兄宗盛を補佐し、平家一門の統率的存在となり、寿永3年(1184年)所領の彦島に本拠地を置き、古城山山頂に門司城を築いて戦に備え、翌年の壇之浦の戦い(1185年3月24日)では田野浦に兵を集め、満珠・干珠島付近に布陣する源氏を攻めますが、義経戦略の前に武運なく敗れ、安徳天皇をはじめ平家一門の最後を見届けると「見るべき程の事は見つ(見るべきものはすべて見た)」と潔く入水して一生を終えました。

墓は甲宗八幡神社が鎮座する筆立山山中にありましたが、昭和28年の文字の大水害により流れ、拝殿裏に傾いたままの状態にありましたので、ここに再祀しております。

境内には能舞台があります。橋掛かりの板は外され、舞台も閉ざされています。

秋祭りのときだけ使われているようです。

参加者からのリクエストもあり、能舞台と知盛様の墓を背後に、「船弁慶」を謡いました。

しずかな門司の町や山に声が響いて行きました。

たくさん拍手を頂き、知盛様に一礼。

景色の良い、高いところが好きなので。めかり公園第二展望台を目指します。

本当はこの小城山の頂上に、平知盛が陣を構えた「門司城跡」があるのですが、大型バスで至近まで行けなくて、登りがきびしく時間も取られるので省略しました。

こちらは下見はしておらず、予想外の急勾配、急カーブの細い道をらくらくと昇って下さる松浦運転手さん、すごい!と皆感動。

しかもこの逆光の、ちっとも集合していない集合写真、スマホのシャッターを快く押してくださり感謝。

本当に良いお天気だったので、思い思いのポイントで皆さん記念撮影されました。

ここの名物、合戦図大壁画は、先ほどみもすそ川公園でみた絵図を拡大したものでした。


最後のポイント、和布刈神社。

ここは合戦の前夜平家軍が戦勝祈願をし、酒宴をしたと伝えられています。

また、旧暦正月の極寒の海で海藻を刈る「和布刈神事」は「和布刈」という能に作られています。

能「和布刈」の前半では干珠、満珠の謂れが語られます。ここで語られるのは神功皇后ではなく、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)=山幸彦が龍宮で授かった宝珠です。


そして龍神の守護により海藻を刈り取る和布刈神事は、神功皇后が宝珠を授かった故事を再現しているとのことで、ふたつの伝説が、宝珠を介して一体化されているようです。

海の動きを知ることが、世を治めるのに極めて重要であったことがうかがわれるのです。

宮司様のご次男である禰宜の高瀬氏のご案内で、皆でご本殿に拝礼。

「和布刈神社の創建は西暦200年、弥生時代と言われておりまして。1800年の由緒を持つ神社です」

そして創建以来、絶えることなく続けられてきたという和布刈神事。

高瀬氏曰く、二つの宝珠は月の象徴と。

新月と満月(月と太陽と地球が一直線上に並ぶとき)月と太陽の引力で、干満の差は最大になります。

水の引いた海で、天の恵みである和布を刈り、神に感謝したのです。

海に映る月を見れば、それが海底の宝珠と想像するのは容易だったことでしょう。

下見で和布刈神社から撮影した夕暮れです。

さあ、再び関門トンネルを通り新下関駅へ帰ります。

バスが海底を通るとき「和布刈」を謡いました。

「和布刈」は、龍宮の神の曲。安徳天皇の魂が、龍宮で安らかでおられますようにと祈念して。

新下関駅で解散。

早めのこだまで帰る方、別の旅程へ向かわれる方、同じ列車でも指定席の方自由席の方、お土産を買ったり各々フリーに。

それぞれ大事なご縁でお付き合いいただいている皆さんと、この日ご一緒でなければ経験できない沢山の思い出のできた一日。

本当にありがとうございました。


*おまけ話*

++あわや、おきざり++

前日みもすそ川公園から下関行きの路線バスに乗り込むと、途中から参加者のひとりに遭遇。

奈良在住の方。下関で一緒に下車しましたが、ふぐのヒレ酒(カップ)を頂き、「ではまた明日!」

・・・で、当日集合時間に来られなかったのです。連絡もないので仕方なく出発。

すると豊功神社でタクシーで追いついたとのことで合流でき胸をなでおろしたのでした。

「いろいろ、いろいろありまして~」

伺う暇もなかったですがまあ、良かったです(^^;)


++高瀬氏出てます++

和布刈神社の高瀬氏は、とても勉強家で神職らしいオーラのあるお方。

大事な伝統や歴史を伝えてゆきたいという静かな情熱が感じられます。

現代人にも浸透するようにと、サイトやギャラリー(境内敷地内)を創られたり、海洋散骨をされたり、その尽力が実を結び参拝者が年々増えているようです。

ご説明のお約束時間もあって最後のポイントになりましたが、最初の伏線が、共鳴できる、

美しいストーリーとして皆さんの記憶に残ったのではないかと思います。


++御朱印フィーバー++

前日高瀬氏から、「御朱印は最初にまとめて…」とご指導いただいたので、朝いち豊功神社から「御朱印のほしい方~」と尋ねると、なんと12名。うち御朱印帳ご持参の方は一名。

そして甲宗八幡神社では、名物のおしゃれな小倉織の御朱印帳を購入された方が6名。

甲宗八幡神社の御朱印をおひとり数え忘れたり、お釣りを渡しそびれたり。

しかし御朱印って、良いものですね。


++土産の日本酒++

あれはもう、10年近く前・・・藤戸のツアーや志度の一泊ツアーにも来られてお酒を酌み交わした方々が、今回もたくさん参加してくださいました。

それぞれとゆっくりお話をする時間が取れないのはとても残念です。

新下関駅で「はい!」と手渡された袋の中には、獺祭の箱と、蒲鉾が・・・

広島までの40分では、無理でござる~


まことに、良い旅でした。

観世流能楽師  山下あさの